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特別対談 |
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ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所 所長 天外伺朗氏 ●TEG代表 田島秀恭 |
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田島: |
今日はよろしくお願いします。私は9月から先生に人間性経営学ということで経営者の在り方を教わっているんですが、先生のお話というのは、もともと電子工学の科学者でいらっしゃるのに、宇宙論、神教学、文化人類学、そして心理学、それも深層心理学、パーソナル心理学など、ありとあらゆるものが入ってきておりまして、今回はそうしたお話の一部をわかりやすくお聞きできたらなと思っています。 |
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天外: |
わかりました。よろしくお願いします。 |
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田島: |
まず、先生の著書『運命の法則』に沿ってお伺いします。俗に、運がよくなる、運を味方につけると言いますが、自分の経験に照らしてみましても、やはり運がいい悪いというのはあるなと思います。私の場合、感謝の心といいますか、自分が追い詰められてどうしようもなくなったときに、社員とか母親のことを思い起こして、ありがたい念が足りないんだなというような考え方になると、運が好転していったような気がしてるんですね。先生は、そうした好運への入り口に導くものとして「フロー」(※)をあげていらっしゃいますが、「フロー」というものは、いわゆる「三昧の境地」に近いのではないかと思います。うちがお預かりしている子どもたちは受験に向かうので、最後は運を味方につけたいなという面があるんですが、それにも増して、本人が持って生まれた才能を伸ばす上で、「フロー」の理論というのは子どもたちにもあてはまるのではないでしょうか。そのあたり、先生はどのように考えられていますか。
(※編集部注 「フロー」…内発的報酬により何かに没頭している状態。1960年代、当時シカゴ大学心理学教授だったチクセントミハイが提唱。)
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天外: |
『運命の法則』という本はお陰様でベストセラーになったわけですが、サブタイトルが「好運の女神と付き合うための15章」となっていたり、表紙を開くと「好運は意図的に招き寄せることができる」と書いていたり、いかにも、どうしたら運がよくなるかというノウハウ本みたいな体裁がありますけれども、本当はそういうことを書いているわけではなくて、好運と不運を我々は本当に分けることができるだろうかというところから出発しているんです。そんなに簡単に分けられるはずはないんですね。 私は今、天外伺朗としてのメインの仕事として、医療問題に取り組んでおりまして、私が推進している医療改革が『癒しの医療』(※)という本にまとめられています。この本には、いろいろな力を持ったお医者さんが登場していますが、彼らはありとあらゆる方法論を使って治療を行っておりまして、すると、他の病院で見放された難病患者が結構治るんですね。そして、病気が治ってよかったねということは当然思うわけですけれども、時々、患者さんの中に「病気になってよかった」という人が出てくるんです。「病気になったお陰で、こんな気づきが得られた」というわけなんですが、私の医療改革はその「気づき」のところに重点を置いているんです。あらゆる人が、魂の成長を望み、そういう道を歩いている、これは意識の成長・進化と呼ばれますが、病気が治って元の仕事に復帰することよりも、そうやって一段上のレベルに行ったことの方が、より人間としては大切なのではないかと思います。「気づき」が得られると、病気になる前と比べて人生ががらりと変わる。そうすると、病気という一見運が悪いような現象の中に、「気づき」という運のいいことが入っているわけですよね。昔の人はこれを「人間万事塞翁が馬」という言い方で表しました。病気になったことが、運が悪かったのか、運がよかったのか、そう簡単に分けられる話ではない、そういうことが『運命の法則』の一番大きなメッセージなんです。
(※編集部注 『癒しの医療』…村尾国士著。副題「時代は医をこえる」) |
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田島: |
一般に言う「運がいい、運が悪い」を通り越した奥深いところで、本来自分が持っていた運命に沿って生きられる。先生の言われることは、こうしたことに近いんでしょうか。
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天外: |
そうですね。そういう意味で、不運に見えることをよくよく分析してみると、今やっていることとか、今考えていることが、大きな流れから外れているよというメッセージなのかもしれないですね。あるいは、すごく運が悪いことのように見える中に、ものすごい好運が隠されているということかもしれません。そういう具合によく見ていくと、目の前に現れるいろいろな出来事というのは、実は幸運も不運もなくて、すべて宇宙の計らいのような形で押し寄せてくると言えるでしょうか。 たとえば、受験をする場合、どうしても試験に受からなければならないということが、逆に言うと、強迫観念になってしまうのかもしれませんね。落ちることが幸運の一つのネタになっているかもしれない、という具合まで心をふわっと広げられた方が、物事を楽にできると思います。そういう考え方をすることで、身の回りで起きていることが、運がいいように見えてくるのではないでしょうか。 |
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田島: |
私も思想的に大変似ている部分がありまして、小学生に毎日睡眠時間を削ってまで長時間勉強させることにはもともと反対だったんですね。今でも感情的には同じものがあります。しかし親の立場に立った時、子どもの将来を考えると、どうしても中学入試を考えざるを得ない。それに、自我が成長してゆく最終段階での最初の試練として中学入試を捉えると、うってつけと言える存在でもある。 だったら真正面から取り組もうとやり始めたんですが、やるからには落とせない。あの小さな子どもたちが本当にがんばるんですよ。あの姿を見ると、絶対落とせないと誰でも思いますよね。 でも、倍率がある以上、全員受かるということは無理ですから、仮に落ちても胸の張れる指導とは何かと考えまして、受かればすべてOK、落ちたらすべて無価値だという博打的な発想、いわば冒険家が新大陸発見に向かうような、成功を目指しての航海ではなくて、航海している日々がそもそも成功だという「成功の航海」にしなくてはいけないなと私は位置づけるようになりました。そこから、カリキュラム、目標設定と計画の練り方、教材、授業の在り方、コミュニケーションの取り方など、そうしたことすべてを考えていこうと。 そう考えて子どもたちを指導した方が、玉砕もいとわないようなねじり鉢巻の切迫した姿勢より却ってよく受かる。 先生の『運命の法則』の中に「プロセスの法則」という項目がありますように、プロセスが正しければ、仮に目前の結果が思うようにいかなくても、いずれ必ず活きてくる、私はそういう指導をしたいと思っていますが、先生のお話に通じるところも多いようです。
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天外: |
塾というものの性格上、非常に難しいかもしれませんが、今の文部科学省教育の中で、いい学校に入って、いい会社に入って、偉くなってという一本道の価値観だけを標榜していると、どこかで行き詰まってしまうのではないでしょうか。 ハワード・ガードナー(※)という教育学者が言っているように、人間というのはいろいろなインテリジェンスを持っておりまして、試験で評価するインテリジェンスというのはそのごく一部なんですね。試験で評価しないインテリジェンスに秀でた人もいるわけで、自分の秀でたところが伸ばせれば、その人はハッピーな人生を送れます。しかし、今の場合ですと、ペーパーテストで評価するところに得意な人が勝ち組というような暗黙の了解がありますよね。それがそもそもの間違いで、それ以外のところでどんどん伸ばしていくような教育が、本当の意味での教育なのではないかと思います。 これは学校教育ではやりにくいでしょうから、本当の意味での教育改革というのは、塾からやっていかなければならない。学校教育と塾の教育負担率という面で言えば、昔は学校教育が主体で、塾は学校教育のための手伝いをしているような感じがありましたけれど、これがあと何年かすると逆転するかもしれない、そうすると、塾というのは、受験のためのものではなくて、もっと全人的な教育に変わるべきであると思っています。
(※編集部注 ハワード・ガードナー…ハーバード大学教育学大学院教授(認知・教育学)。知能の多重性理論を提唱。マッカーサー・フェローシップをはじめ受賞歴多数。著書に『MI:個性を生かす多重知能の理論』『リーダーなら、人の心を変えなさい』など。) |
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田島: |
子どもが生まれたとき、最初の教育権を有しているのは国家よりも親であり、自分の子どもの幸福を考えて、自立に向けて立派な人間になって欲しいというのが本音だと思うんですね。そういう意味では、家庭教育をしっかりするというか、私なども含めまして、今、大人が自信を失っている。その自信を回復して、家庭の教育機能というものをもっと強化していかなければならない中、その教育機能の一部を移譲されて我々が仕事をしている。というような位置づけで、今は考えています。今先生が言われたようなことも、問題意識としてはありますが、やはり当面、受験にシフトした形をとらざるを得ない面はあります。ただ、同じ受験勉強をするにしても、先生も言われている、プロセスの正当性といいますか、やり方がよければ、いい結果が出なかったとしても、その後の人生に必ずつながっていくと思います。 |
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天外: |
そのためには、その人その人の特性に合わせた教育が必要で、ペーパーテストに向けた今のような教育をしていると、プロセスがよくならないですよね。一部の人にしかよくならない。それは非常に大きな問題だと思います。 |
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田島: |
ハワード・ガードナー先生が1983年にMultiple Intelligence──知能の多重性理論を発表されましたが、そのときの談話で「今の教育制度というのは、生徒が千人いたら千人に超一流校を目指した受験勉強をやらせているようなものだ。それは間違っている」ということを明確におっしゃってますよね。また、ガードナー先生が提唱された知能の一つに、自分の情動を把握して、それを動機付けしたりコントロールしたりする能力(心内知性)、コミュニケーションのときに相手が今どんな気持ちでいるのか、それを表情や声の高低などから読み取る能力(対人関係知性)というのがありますが、それらは言語能力とか論理的能力とは別の能力だとしています。 そして、ピーター・サロヴェイ先生(※)やジョン・メイヤー先生(※)が、1989年にEmotional Intelligenceという理論を提唱され、日本に上陸してきたのが1995年でしたか、ダニエル・ゴールマンの『EQ──心の知能指数』という著書がきっかけでした。その頃、私はEQを研究している方と出会いまして、以前から子どもたちを見ていてそういったものの必要性を感じていたものですから、自分も勉強し、職員にも勉強させ、現場の方で実践しています。 先生も「セーフ・ベースの法則」として言われているように、やはり安心していないと、情動の面で一定のバランスが取れていないと、能力も発揮できないんですね。怒りの中で算数の問題を解けと言われても、全然頭が回りませんしね。安定した中で、積極的・肯定的な情動の中では考えは広がりを見せ、逆に消極的・否定的だと考えは狭まってしまう──こうしたことは心理学でも定説となっているようですし、EQについては、もっと深めていきたいと思っています。
(※編集部注 ピーター・サロヴェイ…エール大学のエールカレッジ学長。ジョン・D・メイヤー博士とともに、情動知性という新しい概念を提唱し、人がどのように感情を理解・管理・利用するかについて説明する広範な枠組みを開発。◆ ジョン・メイヤー…ニュー・ハンプシャー大学心理学教授。) |
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天外: |
結局、教育というのは、知識を教え込むのではなくて、人間としての完成度を磨いていくわけですよね。それがどこかで抜けてしまって、ただペーパーテストのための教育をやっているものだから、企業の立場として見ると、一生懸命受験勉強をやってきた人が、会社に入って必ずしも役に立たないという印象はありますし、一流大学をいい成績で出てきた人が、企業の中で有用性を見出せないこともあります。 |
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田島: |
ペーパーテストのための勉強だけでは、社会に出てからの必要条件にはなり得ても、十分条件にはなり得ないということですね。 |
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天外: |
そういうことです。光る人というのは、受験勉強だけやってきた人ではないですよね。別なこともやった人が実社会で光るわけで、人間的にもぐっと伸びていきます。その辺は、保護者の方にも考えてほしいところですね。 |
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田島: |
子どもが成長していく過程で最も重要なものの一つは、どんな人と出会うかということだと思うんです。私自身が付き合いたいなとか、こいつはいい奴だなとか、多少いろんな個性があっても、私はそういう尺度で講師を採用しております。人間味といいますか、食べ物にも味があるように、人間の味のある人間、社内研修でも常々言ってるんですが、才能、才覚も重要ですが、まず人間性だと。それがなければいくら才能があっても指導者としてはだめだと。人間対人間で、言葉では表せないものが伝えられるといいますか。 |
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天外: |
それはすごいですね。言葉とか論理とか、そういうものを超越して伝わるものというのはあります。今、塾の講師の平均レベルは、学校の教師の平均レベルより上ではないかと言う人がたくさんおり、教育学者の中にもそういう人がいます。学校の教員というのは首が切れませんが、塾の講師は生徒の人気がなくなればやっていられないわけですから、そういう意味で、より磨かれた人がいるということは言えると思います。 |
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田島: |
私の教え子の中にも沢山学校の先生になった奴がおりますし、学校の先生がすべてだめだなどとはこれっぽっちも思っていませんが、学校の場合いろんな制約がありますから、そういう中でやりにくい部分はあったでしょうね。 |
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天外: |
そうですね。がちがちに縛られていると言いますか…。 |
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田島: |
子どもたちが毎日、内発的動機、内発的報酬によって「フロー」に入る時間が長ければ長いほど、伸びると思うんですね。では、どうしたらそういう状態に持っていけるのか。一つは、指導者がそういうことがらについて、自分の趣味の世界でも、スポーツでも、勉学の経験でもいいですから、そういう話をすることで子どもたちを「フロー」の状態に導いていく。ただどうしても、勉強の一定のおもしろさがわかるまでは、型にはめるような部分を通過しなくてはならない時期があると思うんです。 |
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天外: |
それが難しいところですよね。 |
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田島: |
一定のところまでいかないと、おもしろさがわからないことってありますよね。 |
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天外: |
私などはものすごく勉強が嫌いで、ずっと学校もあまり好きではなかったですが、本を書く時に、当然いろんな知識を吸収しなければいけませんから、一生懸命読むんですよね。これはおもしろいわけです。でも、学校で教わっていた時というのは、勉強がおもしろいと思ったことは一度もない。そういう意味で、理想論で言いますと、子どもたちの興味とか、関心とか、情熱とかいうものが向かうところは一人ひとりみんな違うわけで、それらをちゃんと引き出してあげられるような教育がこれからの教育だと思います。そうするとみんな、自動的に「フロー」に入りますよ。 また、必ずしも今のぺーパーテストでいい点を取るというのではない、たくさんの違う尺度がある中で、それができないといけない。あるいは、その尺度を取っ払ってもいいのかもしれない。「フロー」に入ることができればOKで、入っていなければ、この子はどうやったら「フロー」に入れるかということを教師側が考えなくてはいけません。教育学の中で言えば、モンテッソーリ(※)がこれをやったわけですが、一部で評判を呼んだにもかかわらず、あまり世の中に普及していないようです。上から強制的に知識を詰め込もうとしているのには危惧を感じていますね。
(※編集部注 モンテッソーリ…イタリア最初の女性医学博士。1896年、ローマに最初の「子どもの家」を開設し、その後医学から教育学へ転向。モンテッソーリ・メソッドと呼ばれる教育法を樹立し、モンテッソーリ教具を考案。)
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田島: |
モンテッソーリの幼稚園を見学したことがありますが、園児が作業に夢中になっている姿は「フロー」の一形態かなと思いましたね。 |
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天外: |
彼女は「フロー」という言葉を使いませんでしたけども、明らかに「フロー」中心の教育ですよね。 |
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田島: |
集中して「フロー」になるという状態を考えますと、ここから先は科学的ロマンの世界に入っていくのかもしれませんが、ボーム(※)の言うところの暗在系と明在系(※)の世界が宇宙の本質で、深層心理の世界、宗教的な力を得る場所、からくり、そういったものに通じると思いますし、無意識の世界から本来持っているパワーを得ると言いますか、本来あるべき姿になりうる、先生の著書を拝見すると、そういうことを先生が感じておられるように思うんですが…。
(※編集部注 ボーム…デビッド・ボーム。アメリカの物理学者。量子力学の基礎を研究した後、形而上学的な宇宙論、世界論を展開した。◆暗在系と明在系…ボームはホログラフィ宇宙モデルを提唱し、その中で目に見えない宇宙を暗在系、目に見える物質的な宇宙を明在系と呼んだ。)
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天外: |
「フロー」は心理学の上で確立された一つの理論体系でして、それは理性とか論理とかいうところのレベルの話ではなくて、もっと深層心理を重視しているんですね。自分の内側から出てくるものを大切にすると、人間はある状態になり、それを「フロー」と呼ぶと。そして、「フロー」の状態に入ると、その人も心地良いし、その人自身がものすごく成長するわけです。このあたりのことは、チクセントミハイが60年代から研究しておりまして、今では心理学の世界では定説となっています。 私はよく深美意識という言葉を使っておりまして、それは人間がだれでも持っている美に対する感覚なんですが、よくよく突き詰めていきますと、古代ギリシアで言われた「真・善・美」というのがすべて一つのところに集結していて、それを深美意識と呼んでいます。そして、それはまた仏教で言う仏性という言葉と同じであると考えています。そういう人間の非常に基本的なところに重きを置いて、そこから発想すると、物事が違って見えてくるわけです。要するに、表面的な理性とか意識とか論理とかというレベルで発想している考えと、深美意識にポイントを置いて発想した考えとでは全然違うんです。そうすると、私に言わせれば、今の文部科学省の教育はいかがなものかなという結論が出てきてしまうんですね。シュタイナー(※)教育とか、モンテッソーリ教育とか、ガードナーの理論とか、みんなそういうところから発想してきていますし、量子力学や深層心理学も追究しているところです
(※編集部注 シュタイナー…ルドルフ・シュタイナー(1861−1925)。ハンガリー(現在のクロアチア)生まれの神秘主義の思想家、建築家、教育者。ある工場主から従業員の師弟の教育に関心があれば学校をつくってみないかとの誘いに応えて自由ヴァルドルフ学校を開校。以来、このタイプの学校がドイツ内外で次々につくられ、それらを総称して「シュタイナー学校」という名前で呼んでいる。日本にも彼の理念に基づいた学校が数校ある。) |
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田島: |
今のお話を伺っていると、私の考えで当たらずとも遠からずということでいいんでしょうかね。 |
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天外: |
そうですね。 |
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田島: |
子どもたちを「フロー」の状態に導けるかどうかという条件の一つに、自我の順調な発達という問題も絡んでくると思うんです。4歳ぐらいから初期自我が、7歳ぐらいから中期自我が、12歳ぐらいから後期自我が始まっていくとされていますが、私共は日々子どもたちと接しているということもあり、その順調な発達を促すためのアドバイスは何かございますか。 |
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天外: |
その子の全存在を受容するということがとても重要で、先ほどセーフ・ベースという話がありましたが、あなたは宇宙に祝福されて生まれてきた存在であって、かけがえのない存在なんだということを、言葉ではなくて、心の底から納得するようなサポートが必要だと思います。存在そのものをアクセプトすると。それがなくて自分の存在に関する不安があると、順調な成長ができないわけです。知識を詰め込むよりも、まずそれをちゃんとやらなくてはいけません。 |
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田島: |
学者の間でも、セルフ・エスティーム──自己肯定というものが欠けてきていると言われていますが、それができうる状態にしていくということでしょうか。 |
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天外: |
大変近い概念だと思います。自己肯定というとややパーソナルなニュアンスがありますけれども、全体の関係性の中で、自分という存在が祝福され、認められているという感覚ですよね。 |
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田島: |
当然、望まれるコミュニケーションがなければいけないでしょうからね。 |
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天外: |
ええ。また、どれだけ受容できるかということは、叱ってはいけないということではなくて、叱る場合も、全存在を認めた上で叱らなければいけないわけです。 |
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田島: |
しつけという面でいいますと、自由にするということは、逆にいうと、何を最低限型にはめなければいけないかと考えることであり、それさえわかっていれば、自由の領域が広まると思うんです。あれもこれも規制をかけた方がいいのではないかという考え方よりは、基本的にできるだけ自由にしようという姿勢のもと、しつけのラインで「うちはこれだけはきちんとやらせよう」というものがあればいいんではないですかね。 |
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天外: |
そういうのも年齢によってずいぶん違いますね。シュタイナー的にいいますと、7歳までは、「こうしなさい。ああしなさい」という言語が役に立たず、行動で示すしかないのですが、親なり教師なりがちゃんとした言動をしていると、子どもはそれを真似るわけです。そして、7歳から14歳までは、言語が使えるようになりますけれども、言語で空虚にいうのではなくて、その人そのものが子どもにとって憧れの大人にならなければならない。あの憧れの大人がいうから聞こうという風になり、これはフロイト的に言うと、超自我ができてくるということです。そこから社会性が生まれてきて、社会の中でルールに基づいて行動できるようになっていきます。それは決して誰かが強制するのではなくて、憧れの大人という存在がないとうまくいかないですね。ですから、論理と理性でもって押し付けるのではなく、全存在があって初めて機能するものなんです。 |
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田島: |
なるほど…。子どもがそうした憧憬をいだく時、常に情動の発達というのがついてくるわけですよね。 |
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天外: |
そして今度は、その人を嫌いになっていくわけです。シュタイナーの場合、担任がずっと変わりませんから、子どもと先生が8年間一緒に過ごすわけですが、最後にその人を嫌いになって、その人を乗り越えていく──これが後期自我とよばれるものです。自立した自我というのは、その人を乗り越えなければいけないんですね。普通のことばで言うと反抗期ですよ。「なんで僕のことをこんなに規制するんだ」という反発がどんどん積み重なってきて、その人を越えて自立していくわけです。そういう意味で、憧れの存在、そしてその憧れの存在を越えていく──そういうプロセスがないと、ちゃんとした自我が発達しないと思います。 |
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田島: |
ちょうど中期自我から後期自我に入る頃というのが中学生位ですよね。そうしますと、中学生位から出会う大人というのは、特に重要になってくるわけでしょうか。 |
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天外: |
というより、その前の小学生時代の大人というのがとても重要で、子どもから見て大好きで、憧れの大人でなくてはいけない。そして「この人が言うんだから」ということで、子どもの超自我が形成されていくわけです。ですから、小学生の塾の先生というのは、そういう存在であって欲しいと思いますよね。 |
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田島: |
同感です。私もそういう思いから、自分がこいつはと思った者を講師として採用し、育てているつもりでおりますが、教師の在り方について何かヒントになるようなことはございますか。 |
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天外: |
教師自身が自らを高めようという気持ちがない限り、望むべくもないですよね。また、遊び心といいますか、単に知識を伝達する技術が上手だとかいうことだけではなくて、教師自身が人生を楽しんでいないと、子どもには伝わらないと思います。 |
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田島: |
まず人間性ですよね。才能・才覚は人間性という土台の上にないと。才能・才覚だけがあって人間性が貧弱な教師は危険だと思います。 |
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田島: |
先生に教えていただいた定説によりますと、人間は、初期自我、中期自我、後期自我、成熟した自我と発達していくわけですが、これからの時代、成熟した自我の人たちが多くなって、世の中はパラダイム変換みたいな形で変わっていくだろうと先生はおっしゃっていましたよね。今小学校一年生の親御さんだとすると、子どもが社会に出るまでの15年から20年の間に、そうしたドラスティックな変化がありうるのでしょうか。 |
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天外: |
そういう意味では、今、ものすごく急激に変化している最中だと思うんですよね。かつて中世から近代に移っていく過程で、サイエンス、市民革命、産業革命が起こり、近代文明社会というものができてきたわけですけれども、その非常に大きな変革と同じくらい大きな変革が、今まさに起きているのだと思います。ものすごく世の中が変わっていく中、いい学校に行っていい会社に入ってという一本道だけ目指していると、それは古い人類の価値観ですから、よく注意した方がいいですよね。これが一点目です。 次に、中世から近代に移り変わったときも、実は人々の意識の成長がその背後にありまして、それは、上から与えられた宗教というものすごく大きな枠組みの中で生活していたのに対して、その枠組みを取り払って、合理主義、理性中心でいこうという風に変わっていったわけです。ところが、理性中心だったのが、これから少しずつ解けていきますから、心理学の方から非常にはっきりとわかることは、社会全体として戦いの要素が少なくなっていきます。今、受験戦争も戦いですし、企業に入っても、企業同士も戦いです。そういった競争社会の要素がだんだん薄まっていくだろうと考えられます。 そうした社会では、塾についても、受験戦争のための塾というのは、旧価値観の中でしか生きていけないですから滅びていくと思います。
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田島: |
つまり、あくまでも徐々に変わっていくと考えていいわけですね。競争についてですが、私は競争そのものは切磋琢磨という言葉もあるように、決して人間を不幸にする要素とは思えないんです。ただ、動物界の弱肉強食そのもののような競争は否定したいですね。うちの塾では「手を取り合って競い合え」と言っておりまして、元々宇宙法則のような形でDNAに刷り込まれていると思うんですが、それが人間の進化に伴って人間らしい競争になっていくように思っています。 価値観の転換というと、普通の人にとっては、どの位の尺度の話なのでしょうか。先生の目には見えてらっしゃるかもしれませんが、私なんかの目にはまだ全然見えていないんです…。
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天外: |
だいたい30年間位のスパンではないでしょうか。たとえば今私が、病院に代わってホロトピックセンターというのを推進していますが、今の形態の病院は少なくなっていくと思います。 |
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田島: |
そうですか…。ちょっと簡単には想像できませんね(笑)。 |
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天外: |
ある意味では、不登校がどんどん増えるなど、学校も今滅びつつあるわけです。そうして新しい価値観が一般的になってくると、新しい時代の塾の在り方として全人教育が求められるようになります。文部科学省も教育委員会普通の学校もやれない全人教育をきちんとできる塾が生き残っていくのではないでしょうか。そのためには、塾も不登校の子たちが来るようなフリースクールを併設されるとよいと思います。 ちなみに、私は奥地圭子という人の書いた本(※1)の書評を書きましたけれど、この方は小学校の教員だったんですが、子どもが不登校になったんですね。それでこの方がつくった東京シューレ(※2)は、今でいうフリースクールの走りですね。私の娘もフリースクールでカウンセラーをやっておりますし…。彼女は、不登校の子たちはセンシビリティが高くて、一緒にいるのがとても楽しいといってますね。
(※1編集部注 『不登校という生き方 教育の多様化と子どもの権利』という本で、NHKブックスより2005年8月刊行。) (※2編集部注 東京シューレ…新宿・王子・大田・流山の4校があり、現在東京シューレ葛飾中学校を、特区によりフリースクールが創る学校として設立準備中。)
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田島: |
不登校の子どもたちの中には、非常に才能豊かな子もいるというのは同感ですが、不登校の子全てがそうだというのはちょっと抵抗がありますね。 |
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天外: |
お母様方に理解しておいてほしいのは、人類というのは相当な勢いで進化しており、自分の子どもは自分より進化した存在だということです。その進化した子たちが、進化できていない社会とか学校の中でにっちもさっちもいかくなってくる──こういうのが不登校、引きこもり、ニート、フリーターといった現象に表れていると私は見ています。そういう連中というのがむしろ進化した人類であって、我々みたいに今社会で活躍している人たちは旧人類だということをちゃんと理解しておかないと、これからの社会は非常に難しくなるでしょう。 ただ、後期自我から成熟した自我へ向かうのは順当な進化ですが、今の不登校の子たちが成熟した自我へ向かっているかというと、そんなことはなくて、彼らには依存が残った中期自我の人が多いと思いますね。なかなか後期自我へいけないで苦しんでいる。 では、何が進化かというと、彼らは戦えなくなってきているんです。これは自我の話とは別に、ホルモンシステムの変化によるものだと思います。我々はアドレナリンを分泌し、血圧を上げ、心動脈拍を上げて戦いますよね。これは、歴史上でいえばちょっと前まで、粗末な槍で荒れ狂う動物を仕留めないと飯が食えない、あるいは、自分を襲ってくる猛獣から逃げないと食われてしまう──という時代があったわけです。今の人類というのは、そういう時代にホルモンシステムをものすごい勢いで発達させ、何万年も生き延びてきた人類なのです。 ところが、社会がどんどん進んできて、今そういうことをやらなくても我々は生活できるようになった。にもかかわらず、発達させたホルモンシステムは急にスイッチオフできないものですから、スポーツをやったり、戦争をやったり、社会の中で競争したりして、そのホルモンシステムを使っているわけです。でも、本当はもう必要がないですから、衰えていっていいはずなんです。今の子どもたちを見ていますと、本当に優しくて戦う力は持っていないですよね。ホルモン系が私らと違うなというのを感じます。多くの人が、それは過保護のせいだとか、父親が弱いからだとかいっていますが、そういう要素もありますけれども、それよりも何よりも人類全体が進化しているというのが私には見えてきます。そういう新しい子どもたちが成熟した自我へ向かっていくことによって、社会全体が変わっていくのだと思います。
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田島: |
先生は新しい何かが30%を超えたら世の中が変わるとおっしゃっていましたが、たとえばアドレナリンの分泌については、調べればわかるんではないでしょうかね。 |
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天外: |
そう簡単にはわからないですけどね。ただ、観察していれば、今の不登校の子たちが戦えない状況だというのはすぐわかります。だんだん戦いが苦手な子どもたちが育ってきている中、戦えるのが正常だと思っていると進化は見えないかもしれませんが、社会が変わったにもかかわらず、スイッチオフしなければいけないホルモンシステムが残っているがために戦っているという見方をすると、彼らが進化した人類だというのがわかってくると思うんです。 |
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田島: |
うーむ。なる程とは思いますが、すぐに全てを受け入れるのは難しいな。 |
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天外: |
これは私自身の経験にも基づいています。私は割と好戦的な人間でしたが、そうじゃないと企業の中で功績を上げたりはできないんです。たとえばテニスをやっていても、試合、つまり戦うことが楽しかったわけですが、瞑想を始めてからは、戦いの要素が減ってきて、テニスにしても、勝ち負けよりは体を動かす喜びの方が大きくなってきましたね。このように自分がだんだんと好戦的でなくなってきたここ10年ぐらいのプロセスを見て、それに照らし合わせると今の子どもたちは進化した人類だという結論にどうしてもなってきます。 |
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田島: |
親が自分の子どもの幸福を願うとき、将来どんな時代になって、その中でどう生きていくことが子どもにとって幸せなのかと親なりに考えることは重要だと思うんです。 |
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天外: |
読者の中に、現在もしくは将来、不登校とか引きこもりの子どもをお持ちの方がいらっしゃるかもしれませんが、それを嘆くことはないよと私はいいたいんです。必要なのは、そういう子どもたちに対して全人的なサポートをすることですね。奥地圭子さんの本にも、そのようにすることで今まで悩んでいた子どもたちが見違えるように生き生きとしてくる話が出てきます。それを本当は塾でもやってほしいんですよね。今不登校などの子が増えてますから、そういう子を引き受けて全人的にサポートして、人間として自我を成長させる──そういうのはとても重要な仕事だと思いますし、ビジネス的にもペイするのではないでしょうか。 |
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天外: |
そうしたニーズがある一方では、ネオエリートといいますか、指導者層の教育というのも大事ですよね。 |
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田島: |
もちろんそういう教育も大事ですし、ひと言でいえば多様性ですよ。ある一方向だけに向いた教育をやってしまうと、それに向いていない子はみんな落ちこぼれていってしまいますよ。そういう教育は文部科学省にお願いするよりも、塾にお願いした方が早い。
エリートを育てるにしても、スピチュアリティといいますか、教える側が人間としてしっかりしていないとだめですよね。知識・教養を裏打ちする……、やっぱり人間力かな。 |
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天外: |
それはあらゆる教育に必要なことですが、スピチュアリティに入り込むと、どうしてもエリートだけが人間ではないというところに行き着いてしまいますね。 |
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田島: |
当然だと思います。でも、社会の構造を考えたとき、指導者層の中に、先生の言われる成熟した自我を持った人が増えないといけないと思うんです。そういった意味でのアプローチはあって然るべきではないでしょうか。 |
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天外: |
ただそのときに、エリートのみに注目すると、スピチュアリティが消えていきますね。むしろエリートを育てなければならないという強迫観念から外れないと、スピチュアリティが活きてこないと思います。 |
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田島: |
スピチュアリティ豊かなエリートを養成するのではなく、スピチュアリティ豊かな人が結果としてエリートになる。そういう社会に変わっていくということですか。すると、今までの指導層とは違った人たちが指導層になる可能性も高いわけですね。 |
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天外: |
先日NHKラジオに出たとき、ちょうどリーダーシップの話になりまして、今までのリーダーとこれからのリーダーは変わってきますよという話をしたんです。指示・命令をあまりしないタイプのリーダーを長老型リーダーといいますが、自分のグループに対してコントロールしようとしないんですね。今までの管理型リーダーというのは、指示・命令によってコントロールしようとしていて、これはどちらかというと自我が肥大していく方向であるわけです。逆に自我が成熟してくると、自分の理性でもってコントロールしようとしなくなってきますが、そういう人は「リーダーをやります」と自分からは手を挙げないわけです。ですから、手を挙げない人からリーダーを見つけて、お願いして、本人が希望しないにもかかわらず、リーダーシップを取ってもらわなくてはいけない。ラジオで「そういうリーダーというのは、国会には一人もいませんよ」といいましたら大受けしましたけどね…(笑)。立候補するということはそもそも、ある程度自我が肥大していないとできないことですからね。 |
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田島: |
私も先生の長老型経営の話を伺って、自己肯定になるのかもしれませんが、大変納得できるところがあり、最近は細かいことをいわなくなりましたね。 ところで、この長老型リーダーの在り方というのは、先生がいわれている無意識の世界、深層心理の世界の中からのエネルギー、啓示、内発的動機、内発的報酬──そういったものとオーバーラップするのでしょうか。
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天外: |
それらはつながっています。サイエンスからいくか、宗教からいくか、深層心理学からいくか…という差はありますが、みんな同じ一つのものを追究していると思いますよ。ただ、宗教からいくと、宗教の臭みが出てしまいますよね。シュタイナー教育が嫌われる一つの理由もその辺にあるのではないでしょうか。 |
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田島: |
シュタイナー教育を支えている人智学(※3)とかそういう分野に入ると、私も含めて、こんな言い方しかできないんですが、普通の人には抵抗があるでしょうしね。
(※3編集部注 人智学…ドイツの哲学者ルドルフ・シュタイナーが提唱した世界観、人間観に基づく観念体系。人間を、ドイツ思想の伝統的観点に基づき、「霊もしくは精神」「魂もしくは心」「体」の三層構造として捉えるのが特徴で、「人間の本質における精神的なもの」を「宇宙における精神的なもの」に高め、それを導こうとする。)
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天外: |
人智学の背景に神智学(※4)というのがありますが、それなんかは私の目から見るとヒンズー教の一派の教えがすごく入っていますからね。彼らはあらゆる宗教を包括したものだといっていますが、宗教には違いありませんから、そういう意味で宗教的臭みというのがどうしても抜けないですよね。ですから、この辺がシュタイナー教育の難しいところなんですが、宗教の臭みを外して語らないと、世の中にはなかなか通らないのではないかと思います。
(※4編集部注 神智学…人間に神秘的霊智があって、これによって直接に神を見ると説く信仰・思想。)
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田島: |
シュタイナー教育の手法の中に、道徳という時間はないけれども、すべての活動の中に道徳的なものが染み込んでいなければいけないというのがありますよね。 |
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天外: |
それは当然で、道徳という時間を作って、理性と論理で道徳を教えても何にもならないと思います。 |
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田島: |
日本では伝統文化の中に、本来しっかりと根付いた……、例えば武士道とか言われるものも含めて、道徳はあったと私は思っています。 |
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天外: |
そうですね。 |
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田島: |
最後に、意識の成長と情動の成長の関係について、先生のお考えをお聞きいたします。今、弊社では、子どもたちの情動の変化を測るアセスメント・シート──EQテストというものを持っておりまして、それを参考にしながら子どもたちのEQのバランスに注意を向け、それぞれの能力を伸ばしてあげたいと思っているんですが、これはアメリカでもさる機関が情動に関することを扱うプログラムを作って実践しております。そこで私はもっと自然に、学科をはじめとして、子どもたちと接するすべての時間で情動を育むようなことがあるべきだと考えているんですね。それは先ほど話に出ましたシュタイナー教育に通じるところもあるのではないでしょうか。 国語などは特に、擬似体験ということで人間関係におけるコミュニケーションの在り方をどう捉えるかなど、情動を育てるいい機会だと考え、そうした教材の開発にも着手しています。学力という面でも、主体的な読み方が自然にできるので、読解力が急速に養われるようです。それで、情動が育つということと、意識が進化することとは、かなり重なっていると思うんですが…。
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天外: |
情動というのは意識の一部ですからね。ちなみにシュタイナーは、年齢によって育つものが違うから、あまり若いときに論理的な部分を発達させない方がいいという言い方をしています。その検証はともかくとして、やはり年代に合った部分を伸ばしてあげないといけないのであって、いきなり知識とか論理とかいう部分を小さい頃からどんどんやってしまうのはどうかと思いますね。むしろ情動とか、意志の力とか、そういう部分をちゃんと伸ばしてあげないといけない。 |
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田島: |
シュタイナーは、思考力の早期教育は逆にマイナスであるという指摘を明確にしていますよね。この場合の思考力の定義も問題ですが…。 |
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天外: |
そうですね。それによって、本来育つべき情動であるとか、判断力とかが抑えられてしまうとされていますが、これはちゃんと検討すべき問題でしょう。 |
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田島: |
どのくらいの時期のことをいうかでしょうけどね。また、17歳の少年が「どうして人を殺してはいけないんだ」という質問をしたという話を聞いたことがありますが、合理的な説明をするならば、普通の知識人は命の尊厳だとか、人間の尊厳だとかいうのでしょう。ただ、もしそれを問いかけてくる子がいたとしたら、その子はきちんと情動が発達していないから、そういう疑問を持ってしまうと思うんです。小さい頃というのは、虫めがねで蟻を殺したりとか、結構残酷なものですが、それがだんだんペットを飼うなど、様々な動植物・自然や人間との触れ合いの中で、自然に、言葉や理屈ではなく、情動の部分で、当たり前のこととして、もののあわれとか命の尊さを身につけていくはずなんです。 |
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天外: |
おっしゃる通りで、なぜ人を殺してはいけないのかという問いに対して、それを論理で説明することには意味がないですよね。そういうのは情動も含めて人間全体のことですから、体がわかっていないことを言葉でわからせようとしても無理な話です。そういう意味で、理性と論理だけで解決すると思っている教育学者には疑問を感じますね。 |
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田島: |
先生のお話は厳しいところもありますが、それでいいんだよ、みたいに感じられて、救われますよね。 |
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天外: |
子どもたちに「いいんだよ、それで」ということをちゃんと伝えたいですよね。 |
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田島: |
今日はどうもありがとうございました。 |
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天外: |
こちらこそありがとうございました。 |
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